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南京大虐殺はなかった!?

南京大虐殺はなかった。

そもそも日本には虐殺と言う概念がほとんどありません。城塞都市がないのも、虐殺がないので民衆を守る必要がなかったことを現しています。中韓のプロパガンダに負けるな!

喜んだ南京市民はじめに

南京市に限らず、日本軍が統治した国や都市はほとんどすべて人口が増えています。

日本軍が統治すると治安が安定し、周囲から人が集まってくるからです。

満州を作った内の一人である土肥原賢二は、その罪でA級戦犯として死刑を言い渡され靖国で祀られていますが、満州国皇帝は土肥原のその超がつく程のお人よしさを心底信頼していたと言います。そして、支那事変ではその土肥原を慕って支那難民が数万人も列を作ったと言われています。

それくらい日本軍の統治は規律がしっかりしていて、支那人にも好かれていました。

第二次上海事変の時のイギリスの報道でも

「国民党軍の撤退によって、上海に居住する数百万の非戦闘員(市民)の危険が非常に小さくなった。
我々は日本軍に感謝すべきである」

とあります。
それが、世界の客観的な反応でもありました。

戦後、日本が負けてから日本は残虐だったことになりましたが、当時はむしろ褒められていた方です。

南京大虐殺も日本に広まったのは、戦後NHKで「真相箱」という企画・脚本・演出をGHQ民間情報局が手がけた番組を行って広まっています。

あの朝日新聞でさえ、南京にいた人達が多く生きていたり、南京に行っていた記者が朝日新聞に多く居る間は、南京大虐殺を記事にしていません。
なかったことを知っている人達が多く居たからです。

朝日新聞が記事にしたのは、戦後30年経ってからです。

当時、支那国民党があまりに自国民を殺したりしすぎるので、日本軍は支那人に歓迎されていました。





1937年12月13日、南京に入城する日本軍に拍手を送る支那人。
(当時の敵国アメリカのパラマウント・ニュース映画カメラマン)


南京に入城する日本軍に拍手を送る支那人2。
(当時の敵国アメリカのパラマウント・ニュース映画カメラマン)


1937年12月17日、日本軍によるお菓子などの配給を受けて万歳をする南京市民。
(毎日新聞カメラマン・佐藤振壽さん撮影)


1937年12月20日に日本軍と一緒に遊ぶ支那人の子供達。
(毎日新聞カメラマン・林さん撮影)


1937年12月15日に日本人のカメラに向かう南京市民。
(毎日新聞カメラマン・佐藤振壽さん撮影)

<東京日日新聞(現・毎日新聞)カメラマン 佐藤振壽氏>
「見てません。虐殺があったと言われていますが、(12月)16、7日頃になると、小さい通りだけでなく、大通りにも店が出てました。また、
多くの中国人が日の丸の腕章をつけて日本兵のところに集まってましたから、とても残虐行為があったとは信じられません」

<ニューヨーク・タイムズ、ティルマン・ダーディンへのインタビュー >
(ダーディン記者は日本軍に対して不利な記事を書き続けていた人)

「南京の市民や周辺の住民は、中国軍に全てを焼き払われ、 戦闘が長く続き、日本軍が南京を制圧した時には一種の安堵感を覚えていた人も多かった。日本軍の占領を、あきらめにせよ
歓迎しよ うとする市民たちもいた。それまでの2〜30年間も中国の軍閥に 支配され搾取され、軍閥同士の戦いで被害を受け、という状態で、 別に支配者が日本軍になってもそう変わりはしない。日本軍でさえまたやがて去っていく。戦闘を終了させたことだけでも、日本軍を 歓迎しても良いではないか…そんな受け止め方が多かった
《古森義久 諸君!2004/10月号》

同じくダーディンの記事
「最初の日本軍の一縦隊が南門から入り、市のロータリー広場に通ずる中山路を行軍しはじめると、中国人は包囲攻撃が終わった安堵感と、日本軍は平和と秩序を回復してくれるはずだという大きな期待から、
一般市民が数人ずつかたまって、大きな歓声をあげた。」

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南京大虐殺はなかった!?

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