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南京大虐殺はなかった!?

南京大虐殺はなかった。

そもそも日本には虐殺と言う概念がほとんどありません。城塞都市がないのも、虐殺がないので民衆を守る必要がなかったことを現しています。中韓のプロパガンダに負けるな!

督戦隊(とくせんたい)督戦隊(とくせんたい)

日本軍にはなかったが、主要各国でも時々用いられた部隊。

自軍部隊を後ろから監視し、自軍部隊が逃げたりすると後ろから自軍部隊を攻撃する部隊である。支那国民党との南京攻略戦においても、支那軍は督戦隊を用い、自軍を多く撃ち殺している。この死傷者も日本軍による虐殺として数えられている。南京攻城戦で、日本軍と戦った支那兵はほとんどが素人兵で、すぐに逃げ出さないように督戦隊を配置していた。

支那国民党は督戦隊だけでなく、足を鎖で縛りつけ逃げれないようにされている兵士も多く居ました。
そんな中、支那国民党の南京防衛軍総司令官である唐生智は、12月12日20時に南京城から逃げ出しています(蒋介石や南京市長は12月7日に逃げている)。

司令官の退却を知った国民党軍は士気が一気に落ち、まだ日本軍が囲んでいない、南京城の東北、および西の門から一斉に脱出しようとします。

10万人が一気に逃げようとしたのです。
その混乱は相当なものだったと思います。

なかでも揚子江の波止場に通じる「ゆうこうもん」から脱出しようとする者が最も多かった。

ここに督戦隊が待ち構えていました。

督戦隊は逃げてくる国民党の兵士を銃撃して撃ち殺します。退却しようとする国民党兵士たちも銃撃を持って応じています。

支那軍同士の戦いです。
ここに沢山の死者が出るのですが、この死者も日本軍による虐殺だと言う人がいます。
しかし、一般人はそんな銃撃戦に飛び込めません。
同士討ちによる犠牲者です。

その後、督戦隊は壊滅し国民党の敗残兵は揚子江に逃げるのですが、船が少ししかありません(司令官・唐生智が逃げる時に大きい舟をすべて持って行ったと言われている)。
ここでも同士討ちが起こっています。

そして、泳いで渡ろうとして溺れた人もいたでしょう。

小さな船に沢山の人が載って、転覆をした舟もあったと思います。

そこに日本軍が来て銃撃戦が起こっています。
これも虐殺という人達がいますが、退却兵とは言え、銃を持った数万の兵隊です。支那兵も沢山撃ってくるし、装備は日本軍よりも遥かによいものを使っていました。
ただの戦死とみるのが正しい認識です。

この時退却軍と戦ったのは、津連隊、奈良連隊、熊本連隊、都城連隊などです。
特に熊本連隊は、圧倒的不利な状態で退却軍と戦っています。

ちなみに、「南京虐殺と戦争」「私記南京虐殺(彩流社)」などを書いた共産党員曽根一夫は、その本の中で、自身の体験として、日本軍が南京で虐殺した様子を克明に描写していますが、彼が所属していたのは岐阜第六八連隊で、南京城の南東にある通済門の外側の警備をしていた連隊です。岐阜第六八連隊は城内に入っていないし、国民党軍と戦闘さえも行っていません。
想像だけで本を書いたということになります。

この督戦隊は支那以外の軍でも使っていたということは前述しましたが、第二次上海事変でも支那国民党は督戦隊と退却軍が同士撃ちを行い沢山の死傷者を出しています。

第二次上海事変で支那国民党第十九師は日本軍に出会い、驚いて後退しています。
すると督戦隊は後退する自軍に発砲。

ここで激しい銃撃戦が自軍同士で行われています。
双方合わせて数千名の死傷者を出しています。

この事件が起こって、国民党は何をやったかというと、事件の八日後に国民党軍法執行総監部命令で、「
督戦隊の後方に、さらに死刑の権限を持った督察官を派遣し、前線将兵の取締りを行う」と発表しています。

督戦隊の督戦隊を作ったのは恐らく世界で支那だけだと思います。




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