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南京大虐殺はなかった!?

南京大虐殺はなかった。

そもそも日本には虐殺と言う概念がほとんどありません。城塞都市がないのも、虐殺がないので民衆を守る必要がなかったことを現しています。中韓のプロパガンダに負けるな!

ハロルド・J・ティンパーリはじめに

ティンパーリはオーストラリア生まれのオーストラリア人で、デイリー・テレグラフ紙のレポーター、クリスチャン・サイエンス・モニター、AP、ロイター通信社北京支局記者、マンチェスター・ガーディアン紙など様々な特派員、AP特派員などを歴任。その上、支那国民党の中央宣伝部顧問となり、南京大虐殺を造りあげた人物です。ティンパーリ自身は、当時南京にはおらず上海で活動していたのにも関わらずです。

ティンパーリは、南京安全区国際委員会委員であり金陵大学(現:南京大学)教授であったマイナー・シール・ベイツへの手紙(1938年2月4日付)で次の様に書いています。

「(マギーフィルムを見て)
妙案を考えています。その妙案を、国務省の役人や上院議員などに伝えるように(ジョージ・フィッチという知り合いに)進言しました。効果はてきめんです。中国人への同情が喚起されて、(中略)ハル国務長官からは会見を申し込まれるだろうし、(ルーズベルト)大統領とも会う事になるかもしれません。(中略)これはまったく私一人で考えついたことです。(中略)資金の手配はしているところです。」

という内容です。

つまり、「マギーフィルム」という南京事件の被害者の映像(虐殺の映像部分は映っていない)を見て、
南京大虐殺をでっち上げることを思い付き、それをハル国務長官に伝えた所、ハル国務長官は乗り気で大統領にも会えそうだという内容です。

ハル国務長官とルーズベルト大統領は当時、日本とどうやって戦争しようかと心を悩ませていました。

そこにティンパーリは、南京大虐殺というでっち上げを作り、アメリカ国内の反日の気運を上げようと提案したのです。





当時、ティンパーリは金銭的に厳しい生活をしていたことが分かっています。
ティンパーリの妙案を聞いたジョージ・フィッチは、以後7か月もの間全米各地で講演会を開き、南京大虐殺をでっち上げて広めています、その資金源は支那国民党であったとも言われています。

そして、ティンパーリ自身は1938年4月初めに上海からロンドンに向い、7月にヴィクター・ゴランツ書店(英語版)から『
What War Means: The Japanese Terror in China』を刊行しました。

刊行後、ティンパーリは米国を旅行した後、マンチェスター・ガーディアン紙やASIA誌を辞し、1939年3月頃、支那国民党の首都がある重慶に入り、
支那国民党の中央宣伝部顧問となっています。

ティンパーリはオーストラリア人であった為、ティンパーリの書籍『WHAT WAR MEANS』は第三者的なジャーナリストによるものとして認識され、「客観的な資料」として扱われてきました。

しかし、近年の研究で、ティンパーリは左翼思想の持ち主で、共産主義運動に関与していた他、支那国民党中央宣伝部の下部組織である国際宣伝処英国支部(ロンドン)の「責任者」として月額1千ドルの活動費を得て、宣伝工作活動を行っていたことが判明しています。

そして、支那国民党の王凌霄『中国国民党新聞政策之研究(1928-1945)』及び、国際宣伝処処長曽虚白の回想記に「
ティンパーリとスマイスに宣伝刊行物の二冊の本を書いてもらった」と記されていることから、支那国民党がティンパーリに南京大虐殺のでっち上げの本を書くことを依頼したことが分かっています。

すなわち、第三者的なジャーナリストではなく、支那国民党の宣伝員であったということです。

『曾虚白自伝(上)』にはこのように書かれています。

「我々は手始めに、
金を使ってティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい、印刷して発行することを決定した。〔中略〕二つの書物は〔中略〕宣伝の目的を達した。」

これらの内容から、南京大虐殺とは、ティンパーリが思い付き、支那国民党がお金を出して作り、アメリカがそれを利用して、対日戦争を進めようとした創作物であることが良く分かります。

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