そもそも日本には虐殺と言う概念がほとんどありません。城塞都市がないのも、虐殺がないので民衆を守る必要がなかったことを現しています。中韓のプロパガンダに負けるな!
松井石根大将は、「南京大虐殺」が起きたとされる南京攻略戦で大将として指揮をとり、不法行為の防止や阻止などを怠ったとして、B級戦犯として死刑の判決を受けました。正確に言うとA級戦犯ではないのですが、A級戦犯の28人の一人として良く知られる人物です。
1978年に靖国神社に合祀されています。
松井大将は、東京裁判で「(大虐殺は)公的な報告を受けたことがなく、終戦後米軍の放送で初めて知った。」と仰ってます。
それは、そうでしょう。
そんな事件はなかったのですから・・・。
そもそも松井大将は、その生涯を「日支(中)提携」、「アジア保全」に捧げています。
松井は陸軍幼年学校時代から、川上操六に影響を受け、ロシアの脅威を避けるには「日本と支那(中国のこと。以下、支那と書く)の有効な提携」が不可欠であると考えていました。
陸軍士官学校を卒業後、日露戦争に従軍。
その時に先輩である荒尾精(日支提携によるアジア保全を唱えた先覚者)にも強い影響を受けている。
その後、自ら志願して、清国へ派遣されます。
日支関係を良好なものとして築きあげることが、日本、更にはアジア全体の安寧に繋がると考えたからである。
滞在中、孫文と深く親交するようになる。松井は孫文の大アジア主義に共感し、辛亥革命を支援。
三菱財閥の岩崎久弥から陸軍参謀本部宇都宮太郎を通して預かった10万円を、孫文を支援する為の元金として使っている。
その後も支那国民党の袁世凱打倒に協力している。
松井は日本に留学した蒋介石とも親交があり、蒋介石が政治的に困難な際に訪日を働きかけ、日本の田中義一首相との会談を取り持ち、蒋介石の事態を打開させている。
松井は当時既に支那は蒋介石によって統一されるだろうと思っており、現在失意の状態にいる蒋介石を支援して、蒋介石の全国統一を援助しようとしていた。
しかし、蒋介石率いる国民革命軍が日本人居留民を襲撃する済南事件が起き、事態は一変。その上、張作霖爆殺事件が勃発が勃発(最近はロシアの仕業と言われている)。
松井は張作霖を「反共産党の防波堤」に位置付けていた。
その後、反日を強めていった蒋介石との連携によるアジア保全の構想は破たんしたものの、松井は1933年に大亜細亜協会を設立して、「欧米列強に支配されるアジア」から脱し、「アジア人のためのアジア」を実現するためには「日支の提携が第一条件である」とする松井らの「大亜細亜主義」が、いよいよ本格的に始動し始めます。
1934年、現役を退き、予備役へと入ります。
一方、米勢力に媚び入り、反日・排日の色を濃くする蒋介石の国民党には不信感を持っていた。松井は、蒋介石が共産党の華南での勢力拡大を止めることが出来ていないのに対しても失望していた。
その上、蒋介石がリットン調査団の報告書を嬉々として受け入れたことについても失望を募らせた。
松井は「英米が支那に勢力を大きくしているのも国民党のせいであり、満州だけでなく支那全土を国際管理下に置こうと言う意図があるリットン報告書を無条件に受けることは、支那自らを欧米に売り、アジアを裏切る行為である。」と述べている。
1936年、松井は蒋介石との関係を取り戻す為に蒋介石らと会談している。
しかし、その後、西安事件が起こり、蒋介石は共産党と組み、180度方針を転換し抗日へと走り出した。これで、蒋介石と連携するという松井の構想は完全に破たんすることになった。
1937年、盧溝橋事件により支那事変勃発。そして通州事件、大山事件が発生。その上、第二次上海事変が勃発すると、予備役の松井に陸軍次官から呼び出しがかかった。
日本は、南京を攻略するにあたり、国際関係の評判を気にして、日支友好の為に生涯を捧げていることで名前が通っていた松井を司令官にしたのである。
松井はその日本の意志を受けて、南京攻略を前に「南京城攻略要領」(略奪行為・不法行為を厳罰に処すなど厳しい軍紀を含む)を兵士に示している。
そして、日本軍は「降伏勧告文」を南京の街に飛行機で撒布した。しかし、南京から降伏勧告に対する回答はなく(蒋介石は既に逃げていたから)、南京総攻撃が始まった。
どれくらい慎重だったかというと、松井大将は12月9日正午に南京城内に飛行機で和平開城勧告文のビラをまきます。
10日午後一時まで、待つけれど、城内からは、何の回答も反応もない。
南京城を取り囲んでからこの時点で6日経っています。
つまり、6日間も和平と降伏を呼びかけていたのです。
(その間、支那側からの大砲や迫撃砲、機関銃による攻撃はもちろんありましたが、日本軍は整然と銃撃砲撃をこらえて待機しています。)
日本では、松井大将は12月4日に南京を取り囲んだのだから、南京はとっくに陥落しただろうと考え、陥落2日前の11日に全国的な南京陥落の祝賀行事などが行われています。
南京は3日後の12月13日に陥落。
南京に入城して、松井は軍紀の粛正を改めて命じ、合わせて中国人への軽侮の思想を念を押すようにして戒めている(上海派遣軍参謀副長の上村利道の陣中日記より)。
松井はその上、蒋介石が信頼していた宋子文を通じて、独自の和平交渉を進めようとしています。
松井は軍中央から中国寄りと見られ、考え方の相違から更迭され、再び予備役になっている。
帰国後は、支那事変の日支両国の兵士の犠牲は、アジアのほとんどの欧米諸国植民地がいずれ独立するための犠牲であると位置づけ、その供養について考えていた。
そして、1940年支那事変における日支双方の犠牲者を弔う為、静岡県熱海市伊豆山に興亜観音を建立し、自らは麓に庵を建ててそこに住み込み、毎朝観音経をあげていた。
その上、軍籍を離れた松井は「大亜細亜協会」会頭として、アジア主義運動を展開し、国内各所での講演活動を行っていた。
他に、松井は「思想国防協会」会長となり、日米開戦の意義や東南アジア占領地における興亜思想の普及について述べている。
そして、大東亜共栄圏確立の重要性を考え、南京では汪兆銘と、ビルマではバー・モウ、シンガポールではチャンドラ・ボースなどアジアの独立運動家とそれぞれ会談している。
それから戦後までの間、朝昼2回、近くの観音堂に参拝するのが日課だった。
終戦後、松井は東京裁判でA級戦犯の指定を受ける。
松井は巣鴨プリズンに収容される前夜、近親者たちを招いて宴を催し、「自分はどうせ殺されるだろうが、願わくば興亜の礎、人柱として逝きたい。かりそめにも親愛なる支那人を虐殺云々ではなんとしても浮かばれないナァ」と語っている。
結局、「南京で2万の強姦(ごうかん)、20万人以上の殺害があった」と断定した東京裁判だが、松井に対する判決では「南京陥落から6、7週間に何千という婦人が強姦され、10万人以上が殺害」とそれぞれ数を引き下げた。
どれくらい適当な数字か良く分かる判決である。
今現在、中国共産党では、松井を南京事件の責任者、日本軍による非道の象徴的人物と位置づけていて、日本ではA級戦犯の一人として靖国に祀られてはいるものの、国会議員の靖国参拝の度に東亜と国内の左寄りの勢力から批判の対象となっている。
皮肉にもどん底の蒋介石を支援した松井は、蒋介石によって大東亜戦争最大の悪者に仕立て上げられたのである。
せめて、これを読んだ人達だけでも松井大将の無実を信じていただけたら幸いである。