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南京大虐殺はなかった!?

南京大虐殺はなかった。

そもそも日本には虐殺と言う概念がほとんどありません。城塞都市がないのも、虐殺がないので民衆を守る必要がなかったことを現しています。中韓のプロパガンダに負けるな!

通州事件(閲覧注意、気分が悪くなります。)はじめに

通州事件とは、南京攻略戦より前の1937年7月29日に支那の通州において、日本人居留民が支那人によって大量に虐殺された事件である。

日本軍留守部隊約110名は壊滅し、婦女子を含む日本人居留民約380名中、260名が惨殺されている。死者の内、性別不明な程損傷させられていた遺体が34名も居たと言われている。犠牲者の内半数は朝鮮人(当時日本人)だった。

日本人の平均的倫理観から見て尋常ならざる殺害の状況(強姦され陰部にほうきを刺された女性の遺体、テーブルの上に並べられていた喫茶店の女子店員の生首、斬首後死姦された女性の遺体、腹から腸を取り出された遺体、針金で鼻輪を通された子供など)を生存者であった同盟通信記者安藤利男が発表し、日本における反中感情は劇的に高まったとも言われている。

この事件は、支那側の役人と同伴で検証し、謝罪と慰謝料、損害賠償120万円を受け取って一応の収束を得ている。

日本軍が南京で行ったという行為のほとんどは通州で支那人が日本人に行ったことを逆に言っているだけである(南京大虐殺の写真のいくつかも通州事件の写真を偽ったものであることが分かっている)。

事件の後駆けつけた日本軍の支那駐屯歩兵第2連隊長の萱島高の証言によれば、飲食店の旭軒では17歳から40歳までの女7、8名が強姦後、裸体で陰部を露出したまま射殺され、うち4、5名は陰部を銃剣で刺されていた。日本人男子の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があったと証言している。

また、第2連隊歩兵隊長代理の桂鎮雄の証言によれば、旅館の近水楼では、入り口で女将らしき女性の遺体があり、着物がはがされ、銃剣で突き刺さされ、また陰部は刃物でえぐられていた。帳場配膳室での男性の遺体は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のように突き刺されていた。女性遺体は裸体で、局部などに刺突の跡があった。カフェの裏で殺害された親子の子は、手の指を揃えて切断されていた。南城門の商店の男性遺体は、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していたと凄まじい内容であった。

他には、支那駐屯歩兵第2連隊小隊長の桜井文雄の証言によれば、守備隊の東門には、数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっていた。鼻に針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等の死体が、ゴミばこや壕から続々発見され、ある飲食店では一家全員が首と両手を切断され惨殺されていた。14、5歳以上の女性はほとんど強姦され殺害され、旭軒では陰部に箒を押し込んであったり、口に土砂をつめてあったり、腹を縦に断ち割った遺体があった。東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせて鉄線を貫き、6人数珠つなぎにして引き回された形跡のある死体もあり、池は血で赤くなっていたと読んでいるだけで吐きそうな内容である。

ちなみに通州に住んでいた支那人の中にも、日本人を自分の子供だと言って子どもを一人救ったりもしている。支那の残留孤児にしてもそうだが、支那人の中には子供を救ってくれる人達が少なからずいたのも事実である。

支那事変(日中戦争)を日本による侵略戦争と言う人達がいる。
この通州事件も日本以外の国であるならば、報復戦争を行っていたでしょう。

しかし、日本はこの事件の後も陸軍、空軍、内閣も全会一致で戦争を避けようとしています。
元外交官・船津辰一郎(ふなつたついちろう)を通じて、「船津工作」と言われる和平を蒋介石に働きかけています。

内容は、支那が日本に希望していた条件をすべて丸呑みするというものです(4項目)。
盧溝橋、廊坊、広安門の各事件の賠償さえ要求していません。全部呑むのです。そうすれば、支那が日本を敵視する理由が何も無くなると考えました。

しかし、和平工作当日に大山中尉虐殺事件が起き、1週間後に第二次上海事変が起き、支那事変へと発展してしまいます。支那への駐屯も、北京議定書に基づいて行っていたものに過ぎません。


フレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズ著『中国の戦争宣伝の内幕 』フレデリック・ヴィンセント・ウィリアムズ著『中国の戦争宣伝の内幕 −日中戦争の真実−』

私が住んでいた北支の150マイル以内のところに、200名の男女、子供たちが住んでいたが、共産主義者によって殺された。

20名はほんの子供のような少女だった。
家から連れ出され、焼いたワイヤーで喉をつながれて、村の通りに生きたまま吊り下げられていた。 空中にぶらぶらされる拷問である。
共産党員は野蛮人のように遠吠えしながら、揺れる身体を銃弾で穴だらけにした。

日本人の友人であるかのように警護者の振りをしていた中国兵による通州の日本人男女、子供たちの虐殺は、古代から現代までを見渡して最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう。

それは1937年7月29日の明け方から始まった。 そして1日中続いた。
日本人の男、女、子供は野獣のような中国兵によって追いつめられていった。 家から連れ出され、女子供はこの兵隊ギャングどもに襲い掛かられた。 それから男たちと共にゆっくりと拷問にかけられた。

酷いことには手足を切断され、彼らの同国人が彼らを発見したときには、殆どの場合、男女の区別も付かなかった。 多くの場合、死んだ犠牲者は池の中に投げ込まれていた。 水は彼らの血で赤く染まっていた。

何時間も女子供の悲鳴が家々から聞こえた。 中国兵が強姦し、拷問をかけていたのだ。

これは通州のことである。 古い町だが、中国で最も暗黒なる町の名前として何世紀の後も記されるだろう。

この血まみれの事件に380人の日本人が巻き込まれた。 しかし120人は逃げおおせた。 犯され殺された者の多くは子供であった。 この不幸なおびただしい日本人の犠牲者たちは暴行が始まって24時間以内に死んだのだが、責め苦の中で死んでいったのだ。

中国人たちは焼けたワイヤーを鼻から喉へと通し、両耳を叩いて鼓膜を破り、彼らの「助けてくれ」との叫びを聞こえなくさせた。
目玉を抉り出し、自分の拷問者を見られなくした。

アメリカ西部の開拓初期の頃のイロクォイ族もスー族もこんなことまで考案しなかった。

(中略)

こういう事件が起こっているときも、その後も、日本帝国に住む6万人の中国人は平和に生活していた。
彼らの生命や財産は、日本人たちとの渾然一体となった友好的な社会関係の中で守られていた。
私は横浜のチャイナタウンを歩いたことがある。他の町でも遊んでいる中国人の子供を見つけた。

調寛雅 著『天皇さまが泣いてござった』調寛雅 著『天皇さまが泣いてござった』

それは昭和九年の初め頃だったのです。

T(支那人)さんが言っていたとおり、この通州には日本人も沢山住んでいるし、支那人も日本人に対して大変親切だったのです。
(中略)
ところが昭和十一年の春も終わろうとしていたとき、Tさんが私にこれからは日本人ということを他の人にわからないようにせよと申しますので、私が何故と尋ねますと、支那と日本は戦争をする。
そのとき私が日本人であるということがわかると大変なことになるので、日本人であるということは言わないように、そして日本人とあまりつきあってはいけないと申すのです。

私は心の中に不満が一杯だったけどTさんに逆らうことは出来ません。 それで出来るだけTさんの言うことを聞くようにしました。顔見知りの兵隊さんと道で会うとその兵隊さんが、Tさん近頃は軍の方にこないようになったが何故と尋ねられるとき程つらいことはありませんでした。

そのうちにあれだけ親日的であった通州という町全体の空気がだんだん変わって来たのです。 何か日本に対し又日本人に対してひんやりしたものを感じるようになってまいりました。 Tさんが私に日本人であるということが人にわからないようにと言った意味が何となくわかるような気がしたものでした。

そして何故通州という町がこんなに日本や日本人に対して冷たくなっただろうかということをいろいろ考えてみましたが、私にははっきりしたことがわかりませんでした。
只、
朝鮮人の人達が盛んに日本の悪口や、日本人の悪口を支那の人達に言いふらしているのです 私が日本人であるということを知らない朝鮮人は、私にも日本という国は悪い国だ、朝鮮を自分の領土にして朝鮮人を奴隷にしていると申すのです。
そして日本は今度は支那を領土にして支那人を奴隷にすると申すのです。 だからこの通州から日本軍と日本人を追い出さなくてはならない。 いや日本軍と日本人は皆殺しにしなくてはならないと申すのです。

私は思わずそんなんじゃないと言おうとしましたが、私がしゃべると日本人ということがわかるので黙って朝鮮人の言うことを聞いておりました。
そこへTさんが帰って来て朝鮮人から日本の悪口を一杯聞きました。 するとTさんはあなたも日本人じゃないかと申したのです。 するとその朝鮮人は顔色を変えて叫びました。 日本人じゃない朝鮮人だ、朝鮮人は必ず日本に復讐すると申すのです。 そして安重根という人の話を語りました。 伊藤博文という大悪人を安重根先生が殺した。 我々も支那人と一緒に日本人を殺し、日本軍を全滅させるのだと申すのです。

私は思わずぞっとせずにはおられませんでした。 なんと怖いことを言う朝鮮人だろう。 こんな朝鮮人がいると大変なことになるなあと思いました。
Tさんは黙ってこの朝鮮人の言うことを聞いて最後まで一言もしゃべりませんでした。

こんなことが何回も繰り返されているうちに、町の空気がだんだん変わってくるようになってまいったのです。
(中略)
日本人が通った後ろ姿を見ながら朝鮮人が、 「あれは鬼だ、人殺しだ、あんな奴らはいつかぶち殺してやらねばならない」と支那人達に言うのです。

最初の頃は支那人達も朝鮮人達の言うことをあまり聞きませんでしたが、何回も何回も朝鮮人がこんなことを繰り返して言うと、支那人達の表情の中にも何か険しいものが流れるようになってまいりました。

特に保安隊の軍人さん達がこの朝鮮人と同じ意味のことを言うようになってまいりますと、もう町の表情がすっかり変わってしまったように思えるようになりました。
私はあまり心配だから、あるときTさんにこんな町の空気を日本軍に知らせてやりたいと申しますと、Tさんはびっくりしたようにそんなことは絶対にいけない、絶対にしゃべったらいけないと顔色を変えて何度も言うのです。 それで私はとうとう日本軍の人たちにこうした町の空気を伝えることが出来なくなってしまったのです。

それが、昭和十一年の終わり頃になるとこうした支那人達の日本に対しての悪感情は更に深くなったようです。 それは支那のあちこちに日本軍が沢山駐屯するようになったからだと申す人達もおりますが、それだけではないようなものもあるように思われました。
(中略)
昭和十二年になるとこうした空気は尚一層烈しいものになったのです。 そして上海で日本軍が敗れた、済南で日本軍が敗れた、徳州でも日本軍は敗れた、支那軍が大勝利だというようなことが公然と言われるようになってまいりました。

日に日に日本に対する感情は悪くなり、支那人達の間で、 「日本人皆殺し、日本人ぶち殺せ」と言う輿論が高まってまいりました。
その当時のよく言われた言葉に、 「日本人は悪魔だ、その悪魔を懲らしめるのは支那だ」という言葉でした。 私はそんな言葉をじっと唇をかみしめながら聞いていなくてはならなかったのです。

支那の子供達が「悪鬼やぶれて悪魔が滅ぶ」という歌を歌い、その悪鬼や悪魔を支那が滅ぼすといった歌でしたが、勿論この悪鬼悪魔は日本だったのです。
(中略)
そして支那人の心がだんだん悪くなって来て、日本人の悪口を言うようになると、あれ程日本と日本人の悪口を言っていた朝鮮人があまり日本の悪口を言わないようになってまいりました。

いやむしろ支那人の日本人へ対しての怒りがだんだんひどくなってくると朝鮮人達はもう言うべき悪口がなくなったのでしょう。 それと共にあの当時は朝鮮人で日本の軍隊に入隊して日本兵になっているものもあるので、朝鮮人達も考えるようになって来たのかも知れません。

しかし五月も終わり頃になって来ると、通州での日本に対する反感はもう極点に達したようになってまいりました。 Tさんはこの頃になると私に外出を禁じました。 今まではTさんと一緒なら商売に出ることが出来たのですが、もうそれも出来ないと言うのです。

そして「危ない」「危ない」と申すのです。
それで私がTさんに何が危ないのと申すと、日本人が殺されるか、支那人が殺されるかわからない、いつでも逃げることが出来るように準備をしておくようにと申すのです。

六月になると何となく鬱陶しい日々が続いて、家の中にじっとしていると何か不安が一層増して来るようなことで、とても不安です。 だからといって逃げ出すわけにもまいりません。
そしてこの頃になると一種異様と思われる服を着た学生達が通州の町に集まって来て、日本撃つべし、支那の国から日本人を追い出せと町中を大きな声で叫びながら行進をするのです。

それが七月になると、 「日本人皆殺し」 「日本人は人間じゃない」 「人間でない日本人は殺してしまえ」 というような言葉を大声で喚きながら行進をするのです。 鉄砲を持っている学生もいましたが、大部分の学生は銃剣と青竜刀を持っていました。

そしてあれは七月の八日の夕刻のことだったと思います。 支那人達が大騒ぎをしているのです。 何であんなに大騒ぎをしているのかとTさんに尋ねてみると、北京の近くで日本軍が支那軍から攻撃を受けて大敗をして、みんな逃げ出したので支那人達があんなに大騒ぎをして喜んでいるのだよと申すのです。

私はびっくりしました。 そしていよいよ来るべきものが来たなあと思いました。 でも二、三日すると北京の近くの盧溝橋で戦争があったけれど、日本軍が負けて逃げたが又大軍をもって攻撃をして来たので大戦争になっていると言うのです。

こんなことがあったので七月も半ばを過ぎると学生達と保安隊の兵隊が一緒になって行動をするので、私はいよいよ外に出ることが出来なくなりました。
この頃でした。 上海で日本人が沢山殺されたという噂がささやかれて来ました。 済南でも日本人が沢山殺されたということも噂が流れて来ました。 蒋介石が二百万の大軍をもって日本軍を打ち破り、日本人を皆殺しにして朝鮮を取り、日本の国も占領するというようなことが真実のように伝わって来ました。

この頃になるとTさんはそわそわとして落ち着かず、私にいつでも逃げ出せるようにしておくようにと申すようになりました。 私も覚悟はしておりましたので、身の回りのものをひとまとめにしていて、いつどんなことがあっても大丈夫と言う備えだけはしておきました。

この頃通州にいつもいた日本軍の軍人達は殆どいなくなっていたのです。 どこかへ戦争に行っていたのでしょう。

七月二十九日の朝、まだ辺りが薄暗いときでした。 突然私はTさんに烈しく起こされました。 大変なことが起こったようだ。 早く外に出ようと言うので、私は風呂敷二つを持って外に飛び出しました。

Tさんは私の手を引いて町の中をあちこちに逃げはじめたのです。 町には一杯人が出ておりました。 そして日本軍の兵舎の方から猛烈な銃撃戦の音が聞こえて来ました。 でもまだ辺りは薄暗いのです。 何がどうなっているやらさっぱりわかりません。 只、日本軍兵舎の方で炎が上がったのがわかりました。

私はTさんと一緒に逃げながら、 「きっと日本軍は勝つ。負けてたまるか」という思いが胸一杯に拡がっておりました。
でも明るくなる頃になると銃撃戦の音はもう聞こえなくなってしまったのです。 私はきっと日本軍が勝ったのだと思っていました。

それが八時を過ぎる頃になると、支那人達が、 「日本軍が負けた。日本人は皆殺しだ」と騒いでいる声が聞こえて来ました。 突然私の頭の中にカーと血がのぼるような感じがしました。

(中略)

八時を過ぎて九時近くになって銃声はあまり聞こえないようになったので、これで恐ろしい事件は終わったのかとやや安心しているときです。 誰かが日本人居留区で面白いことが始まっているぞと叫ぶのです。
私の家から居留区までは少し離れていたのでそのときはあまりピーンと実感はなかったのです。 そのうち誰かが日本人居留区では女や子供が殺されているぞというのです。 何かぞーっとする気分になりましたが、恐ろしいものは見たいというのが人間の感情です。
私はTさんの手を引いて日本人居留区の方へ走りました。

日本人居留区が近付くと何か一種異様な匂いがして来ました。 それは先程銃撃戦があった日本軍兵舎が焼かれているのでその匂いかと思いましたが、それだけではありません。 何か生臭い匂いがするのです。 血の匂いです。 人間の血の匂いがして来るのです。

しかしここまで来るともうその血の匂いが当たり前だと思われるようになっておりました。 沢山の支那人が道路の傍らに立っております。 そしてその中にはあの黒い服を着た異様な姿の学生達も交じっています。 いやその学生達は保安隊の兵隊と一緒になっているのです。

そのうち日本人の家の中から一人の娘さんが引き出されて来ました。 十五才か十六才と思われる色の白い娘さんでした。 その娘さんを引き出して来たのは学生でした。 そして隠れているのを見つけてここに引き出したと申しております。 その娘さんは恐怖のために顔が引きつっております。 体はぶるぶると震えておりました。 その娘さんを引き出して来た学生は何か猫が鼠を取ったときのような嬉しそうな顔をしておりました。 そしてすぐ近くにいる保安隊の兵隊に何か話しておりました。 保安隊の兵隊が首を横に振ると学生はニヤリと笑ってこの娘さんを立ったまま平手打ちで五回か六回か殴りつけました。 そしてその着ている服をいきなりバリバリと破ったのです。

支那でも七月と言えば夏です。暑いです。 薄い夏服を着ていた娘さんの服はいとも簡単に破られてしまったのです。 すると雪のように白い肌があらわになってまいりました。
娘さんが何か一生懸命この学生に言っております。 しかし学生はニヤニヤ笑うだけで娘さんの言うことに耳を傾けようとはしません。 娘さんは手を合わせてこの学生に何か一生懸命懇願しているのです。
学生の側には数名の学生と保安隊の兵隊が集まっていました。 そしてその集まった学生達や保安隊の兵隊達は目をギラギラさせながら、この学生が娘さんに加えている仕打ちを見ているのです。

学生はこの娘さんをいきなり道の側に押し倒しました。 そして下着を取ってしまいました。 娘さんは「助けてー」と叫びました。
と、そのときです。 一人の日本人の男性がパアッと飛び出して来ました。 そしてこの娘さんの上に覆い被さるように身を投げたのです。 恐らくこの娘さんのお父さんだったでしょう。

すると保安隊の兵隊がいきなりこの男の人の頭を銃の台尻で力一杯殴りつけたのです。 何かグシャッというような音が聞こえたように思います。 頭が割られたのです。
でもまだこの男の人は娘さんの身体の上から離れようとしません。 保安隊の兵隊が何か言いながらこの男の人を引き離しました。 娘さんの顔にはこのお父さんであろう人の血が一杯流れておりました。 この男の人を引き離した保安隊の兵隊は再び銃で頭を殴りつけました。 パーッと辺り一面に何かが飛び散りました。恐らくこの男の人の脳髄だったろうと思われます。
そして二、三人の兵隊と二、三人の学生がこの男の人の身体を蹴りつけたり踏みつけたりしていました。 服が破けます。 肌が出ます。 血が流れます。 そんなことお構いなしに踏んだり蹴ったりし続けています。

そのうちに保安隊の兵隊の一人が銃に付けた剣で腹の辺りを突き刺しました。 血がパーッと飛び散ります。 その血はその横に気を失ったように倒されている娘さんの身体の上にも飛び散ったのです。
腹を突き刺しただけではまだ足りないと思ったのでしょうか。今度は胸の辺りを又突き刺します。 それだけで終わるかと思っていたら、まだ足りないのでしょう。 又腹を突きます。 胸を突きます。 何回も何回も突き刺すのです。

沢山の支那人が見ているけれど「ウーン」とも「ワー」とも言いません。 この保安隊の兵隊のすることをただ黙って見ているだけです。
その残酷さは何に例えていいかわかりませんが、悪鬼野獣と申しますか。 暴虐無惨と申しましょうか。 あの悪虐を言い表す言葉はないように思われます。

この男の人は多分この娘さんの父親であるだろうが、この屍体を三メートル程離れたところまで丸太棒を転がすように蹴転がした兵隊と学生達は、この気を失っていると思われる娘さんのところにやってまいりました。
この娘さんは既に全裸になされております。 そして恐怖のために動くことが出来ないのです。

その娘さんのところまで来ると下肢を大きく拡げました。 そして陵辱をはじめようとするのです。 支那人とは言へ、沢山の人達が見ている前で人間最低のことをしようというのだから、これはもう人間のすることとは言えません。
ところがこの娘さんは今まで一度もそうした経験がなかったからでしょう。 どうしても陵辱がうまく行かないのです。

すると三人程の学生が拡げられるだけこの下肢を拡げるのです。 そして保安隊の兵隊が持っている銃を持って来てその銃身の先でこの娘さんの陰部の中に突き込むのです。 こんな姿を見ながらその近くに何名もの支那人がいるのに止めようともしなければ、声を出す人もおりません。 ただ学生達のこの惨行を黙って見ているだけです。

私とTさんは二十メートルも離れたところに立っていたのでそれからの惨行の仔細を見ることは出来なかったのですが、と言うよりとても目を開けて見ておることが出来なかったのです。 私はTさんの手にしっかりとすがっておりました。 目をしっかりつぶっておりました。

するとギャーッという悲鳴とも叫びとも言えない声が聞こえました。 私は思わずびっくりして目を開きました。 するとどうでしょう。保安隊の兵隊がニタニタ笑いながらこの娘さんの陰部を切り取っているのです。

何ということをするのだろうと私の身体はガタガタと音を立てる程震えました。 その私の身体をTさんがしっかり抱きしめてくれました。 見てはいけない。 見まいと思うけれど目がどうしても閉じられないのです。 ガタガタ震えながら見ているとその兵隊は今度は腹を縦に裂くのです。 それから剣で首を切り落としたのです。 その首をさっき捨てた男の人の屍体のところにポイと投げたのです。 投げられた首は地面をゴロゴロと転がって男の人の屍体の側で止まったのです。

(中略)

日本人居留区に行くともっともっと残虐な姿を見せつけられました。 殆どの日本人は既に殺されているようでしたが、学生や兵隊達はまるで狂った牛のように日本人を探し続けているのです。
あちらの方で「日本人がいたぞ」という大声で叫ぶものがいるとそちらの方に学生や兵隊達がワーッと押し寄せて行きます。

私もTさんに抱きかかえられながらそちらに行ってみると、日本人の男の人達が五、六名兵隊達の前に立たされています。 そして一人又一人と日本の男の人が連れられて来ます。
十名程になったかと思うと学生と兵隊達が針金を持って来て右の手と左の手を指のところでしっかりくくりつけるのです。 そうして今度は銃に付ける剣を取り出すとその男の人の掌をグサッと突き刺して穴を開けようとするのです。 痛いということを通り越しての苦痛に大抵の日本の男の人達が「ギャーッ」と泣き叫ぶのです。

とても人間のすることではありません。 悪魔でもこんな無惨なことはしないのではないかと思いますが、支那の学生や兵隊はそれを平気でやるのです。 いや悪魔以上というのはそんな惨ったらしいことしながら学生や兵隊達はニタニタと笑っているのです。

日本人の常識では到底考えられないことですが、日本人の常識は支那人にとっては非常識であり、その惨ったらしいことをすることが支那人の常識だったのかと初めてわかりました。

集められた十名程の日本人の中にはまだ子供と思われる少年もいます。 そして六十歳を越えたと思われる老人もいるのです。 支那では老人は大切にしなさいと言われておりますが、この支那の学生や兵隊達にとっては日本の老人は人間として扱わないのでしょう。

この十名近くの日本の男の人達の手を針金でくくり、掌のところを銃剣で抉りとった学生や兵隊達は今度は大きな針金を持って来てその掌の中に通すのです。 十人の日本の男の人が数珠繋ぎにされたのです。

こうしたことをされている間日本の男の人達も泣いたり喚いたりしていましたが、その光景は何とも言い様のない異様なものであり、五十年を過ぎた今でも私の頭の中にこびりついて離れることが出来ません。

そしてそれだけではなかったのです。 学生と兵隊達はこの日本の男の人達の下着を全部取ってしまったのです。 そして勿論裸足にしております。 その中で一人の学生が青竜刀を持っておりましたが、二十才前後と思われる男のところに行くと足を拡げさせました。
そしてその男の人の男根を切り取ってしまったのです。 この男の人は「助けてー」と叫んでいましたが、そんなことはお構いなしにグサリと男根を切り取ったとき、この男の人は「ギャッ」と叫んでいましたがそのまま気を失ったのでしょう。 でも倒れることは出来ません。 外の日本の男の人と数珠繋ぎになっているので倒れることが出来ないのです。

学生や兵隊達はそんな姿を見て「フッフッ」と笑っているのです。

(中略)

日本人居留区に近付いてみるといよいよ異様な空気が感ぜられます。
旭軒という食堂と遊郭を一緒にやっている店の近くまで行ったときです。 日本の女の人が二人保安隊の兵隊に連れられて出て来ました。 二人とも真っ青な顔色でした。

一人の女の人は前がはだけておりました。この女の人が何をされたのか私もそうした商売をしておったのでよくわかるのです。 しかも相当に乱暴に扱われたということは前がはだけている姿でよくわかったのです。 可哀想になあとは思ってもどうすることも出来ません。 どうしてやることも出来ないのです。 言葉すらかけてやることが出来ないのです。

二人の女の人のうちの一人は相当頑強に抵抗したのでしょう。 頬っぺたがひどく腫れあがっているのです。 いやその一部からは出血さえしております。 髪はバラバラに乱れているのです。 とてもまともには見られないような可哀想な姿です。

その二人の女の人を引っ張って来た保安隊の兵隊は頬っぺたの腫れあがっている女の人をそこに立たせたかと思うと着ているものを銃剣で前の方をパッと切り開いたのです。
女の人は本能的に手で前を押さえようとするといきなりその手を銃剣で斬りつけました。 左の手が肘のところからばっさり切り落とされたのです。 しかしこの女の人はワーンともギャーッとも言わなかったのです。 只かすかにウーンと唸ったように聞こえました。 そしてそこにバッタリ倒れたのです。

すると保安隊の兵隊がこの女の人を引きずるようにして立たせました。 そして銃剣で胸のあたりを力一杯突き刺したのです。 この女の人はその場に崩れ落ちるように倒れました。

すると倒れた女の人の腹を又銃剣で突き刺すのです。 私は思わず「やめてー」と叫びそうになりました。
その私をTさんがしっかり抱きとめて「駄目、駄目」と耳元で申すのです。

私は怒りと怖さで体中が張り裂けんばかりでした。 そのうちにこの女の人を五回か六回か突き刺した兵隊がもう一人の女の人を見てニヤリと笑いました。 そしていきなりみんなが見ている前でこの女の人の着ているものを剥ぎ取ってしまったのです。 そしてその場に押し倒したかと思うとみんなの見ている前で陵辱をはじめたのです。

人間の行為というものはもっと神聖でなくてはならないと私は思っています。 それが女の人を保安隊の兵隊が犯している姿を見ると、何といやらしい、そして何と汚らわしいものかと思わずにはおられませんでした。 一人の兵隊が終わるともう一人の兵隊がこの女の人を犯すのです。 そして三人程の兵隊が終わると次に学生が襲いかかるのです。 何人もの何人もの男達が野獣以上に汚らわしい行為を続けているのです。

私はTさんに抱きかかえられながらその姿を遠い夢の中の出来事のような思いで見続けておりました。 それが支那の悪獣どもが充分満足したのでしょう。 何人か寄っていろいろ話しているようでしたが、しばらくすると一人の兵隊が銃をかまえてこの女の人を撃とうとしたのです。

さすがに見ていた多くの支那人達がウォーという唸るような声を出しました。
この多くの支那人の唸りに恐れたのか兵隊二人と学生一人でこの女の人を引きずるように旭軒の中に連れ去りました。 そしてしばらくするとギャーという女の悲鳴が聞こえて来たのです。

恐らくは連れて行った兵隊と学生で用済みになったこの日本の女の人を殺したものと思われます。 しかしこれを見ていた支那人達はどうすることも出来ないのです。 私もTさんもどうすることも出来ないのです。 もうこんなところにはいたくない。 家に帰ろうと思ったけれどTさんが私の身体をしっかり抱いて離さないので、私はTさんに引きずられるように日本人居留区に入ったのです。

そこはもう何というか言葉では言い表されないような地獄絵図でした。 沢山の日本人が殺されています。 いやまだ殺され続けているのです。
あちこちから悲鳴に似たような声が聞こえたかと思うと、そのあとに必ずギャーッという声が聞こえて来ます。 そんなことが何回も何十回も繰り返されているのでしょう。

私は聞くまいと思うけど聞こえて来るのです。 耳を覆ってみても聞こえるのです。 又私が耳を覆っているとTさんがそんなことをしたらいけないというようにその覆った手を押さえるのです。

(中略)

すると支那人も沢山集まっているようですが、保安隊の兵隊と学生も全部で十名ぐらい集まっているのです。 そこに保安隊でない国民政府軍の兵隊も何名かいました。

それがみんなで集まっているのは女の人を一人連れ出して来ているのです。 何とその女の人はお腹が大きいのです。 七ヶ月か八ヶ月と思われる大きなお腹をしているのです。

学生と保安隊の兵隊、それに国民政府軍の正規の兵隊達が何かガヤガヤと言っていましたが、家の入り口のすぐ側のところに女の人を連れて行きました。 この女の人は何もしゃべれないのです。 恐らく恐怖のために口がきけなくなっていることだろうと思うのですが、その恐怖のために恐れおののいている女の人を見ると、女の私ですら綺麗だなあと思いました。

ところが一人の学生がこの女の人の着ているものを剥ぎ取ろうとしたら、この女の人が頑強に抵抗するのです。 歯をしっかり食いしばっていやいやを続けているのです。 学生が二つか三つかこの女の人の頬を殴りつけたのですが、この女の人は頑強に抵抗を続けていました。

そしてときどき「ヒーッ」と泣き声を出すのです。 兵隊と学生達は又集まって話し合いをしております。 妊娠をしている女の人にあんまり乱暴なことはするなという気運が、ここに集まっている支那人達の間にも拡がっておりました。

とそのときです。 一人の日本人の男の人が木剣を持ってこの場に飛び込んで来ました。 そして「俺の家内と子供に何をするのだ。やめろ」と大声で叫んだのです。 これで事態が一変しました。

(中略)

日本の男の人が倒れると、残っていた兵隊や学生達が集まりまして、この男の人を殴る蹴るの大乱暴を始めたのです。 日本の男の人はウーンと一度唸ったきりあとは声がありません。 これは声が出なかったのではなく出せなかったのでしょう。 日本の男の人はぐったりなって横たわりました。 それでも支那の兵隊や学生達は乱暴を続けております。

そしてあの見るも痛ましい残虐行為が始まったのです。
それはこの男の人の頭の皮を学生が青竜刀で剥いでしまったのです。 私はあんな残酷な光景は見たことはありません。 これはもう人間の行為ではありません。 悪魔の行為です。 悪魔でもこんなにまで無惨なことはしないと思うのです。 頭の皮を剥いでしまったら、今度は目玉を抉り取るのです。 このときまではまだ日本の男の人は生きていたようですが、この目玉を抉り取られるとき微かに手と足が動いたように見えました。
目玉を抉り取ると、今度は男の人の服を全部剥ぎ取りお腹が上になるように倒しました。 そして又学生が青竜刀でこの日本の男の人のお腹を切り裂いたのです。

縦と横とにお腹を切り裂くと、そのお腹の中から腸を引き出したのです。 ずるずると腸が出てまいりますと、その腸をどんどん引っ張るのです。 人間の腸があんなに長いものとは知りませんでした。 十メートル近くあったかと思いますが、学生が何か喚いておりましたが、もう私の耳には入りません。
私はTさんにすがりついたままです。 何か別の世界に引きずり込まれたような感じでした。 地獄があるとするならこんなところが地獄だろうなあとしきりに頭のどこかで考えていました。

そうしているうちに何かワーッという声が聞こえました。ハッと目をあげてみると、青竜刀を持った学生がその日本の男の人の腸を切ったのです。 そしてそれだけではありません。 別の学生に引っ張らせた腸をいくつにもいくつにも切るのです。

一尺づつぐらい切り刻んだ学生は細切れの腸を、さっきからじっと見ていた妊婦のところに投げたのです。 このお腹に赤ちゃんがいるであろう妊婦は、その自分の主人の腸の一切れが頬にあたると「ヒーッ」と言って気を失ったのです。 その姿を見て兵隊や学生達は手を叩いて喜んでいます。

残った腸の細切れを見物していた支那人の方へ二つか三つ投げて来ました。 そしてこれはおいしいぞ、日本人の腸だ、焼いて食べろと申しているのです。 しかし見ていた支那人の中でこの細切れの腸を拾おうとするものは一人もおりませんでした。

この兵隊や学生達はもう人間ではないのです。 野獣か悪魔か狂竜でしかないのです。 そんな人間でない連中のやることに、流石に支那人達は同調することは出来ませんでした。 まだ見物している支那人達は人間を忘れてはいなかったのです。

そして細切れの腸をあちらこちらに投げ散らした兵隊や学生達は、今度は気を失って倒れている妊婦の方に集まって行きました。 この妊婦の方はすでにお産が始まっていたようであります。 出血も始まったのしょう。
兵隊達も学生達もこんな状況に出会ったのは初めてであったでしょうが、さっきの興奮がまだ静まっていない兵隊や学生達はこの妊婦の側に集まって、何やらガヤガヤワイワイと申しておったようですが、どうやらこの妊婦の人の下着を取ってしまったようです。

そしてまさに生まれようと準備をしている赤ん坊を引き出そうとしているらしいのです。 学生や兵隊達が集まってガヤガヤ騒いでいるのではっきりした状況はわかりませんが、赤ん坊を引き出すのに何か針金のようなものを探しているようです。 とそのときこの妊婦の人が気がついたのでしょう。 フラフラと立ち上がりました。 そして一生懸命逃げようとしたのです。

見ていた支那人達も早く逃げなさいという思いは持っているけれど、それを口に出すものはなく、又助ける人もありません。さっきのこの妊婦の主人のように殺されてしまうことが怖いからです。

このフラフラと立ち上がった妊婦を見た学生の一人がこの妊婦を突き飛ばしました。 妊婦はバッタリ倒れたのです。

すると兵隊が駆け寄って来て、この妊婦の人を仰向けにしました。 するともうさっき下着は取られているので女性としては一番恥ずかしい姿なんです。 しかも妊娠七ヶ月か八ヶ月と思われるそのお腹は相当に大きいのです。 国民政府軍の兵隊と見える兵隊がつかつかとこの妊婦の側に寄って来ました。 私は何をするのだろうかと思いました。
そして一生懸命、同じ人間なんだからこれ以上の悪いことはしてくれないようにと心の中で祈り続けました。

だが支那人の兵隊にはそんな人間としての心の欠片もなかったのです。 剣を抜いたかと思うと、この妊婦のお腹をさっと切ったのです。 赤い血がパーッと飛び散りました。 私は私の目の中にこの血が飛び込んで来たように思って、思わず目を閉じました。それ程この血潮の飛び散りは凄かったのです。 実際には数十メートルも離れておったから、血が飛んで来て目に入るということはあり得ないのですが、あのお腹を切り裂いたときの血潮の飛び散りはもの凄いものでした。

妊婦の人がギャーという最期の一声もこれ以上ない悲惨な叫び声でしたが、あんなことがよく出来るなあと思わずにはおられません。
お腹を切った兵隊は手をお腹の中に突き込んでおりましたが、赤ん坊を探しあてることが出来なかったからでしょうか、もう一度今度は陰部の方から切り上げています。 そしてとうとう赤ん坊を掴み出しました。その兵隊はニヤリと笑っているのです。

片手で赤ん坊を掴み出した兵隊が、保安隊の兵隊と学生達のいる方へその赤ん坊をまるでボールを投げるように投げたのです。 ところが保安隊の兵隊も学生達もその赤ん坊を受け取るものがおりません。 赤ん坊は大地に叩きつけられることになったのです。何かグシャという音が聞こえたように思いますが、叩きつけられた赤ん坊のあたりにいた兵隊や学生達が何かガヤガヤワイワイと申していましたが、どうもこの赤ん坊は兵隊や学生達が靴で踏み潰してしまったようであります。

あまりの無惨さに集まっていた支那人達も呆れるようにこの光景を見守っておりましたが、兵隊と学生が立ち去ると、一人の支那人が新聞紙を持って来て、その新聞紙でこの妊婦の顔と抉り取られたお腹の上をそっと覆ってくれましたことは、たった一つの救いであったように思われます。

こうした大変な出来事に出会い、私は立っておることも出来ない程に疲れてしまったので、家に帰りたいということをTさんに申しましたら、Tさんもそれがいいだろうと言って二人で家の方に帰ろうとしたときです。 「日本人が処刑されるぞー」 と誰かが叫びました。

(中略)

そこには兵隊や学生でない支那人が既に何十名か集まっていました。 そして恐らく五十名以上と思われる日本人でしたが一ヶ所に集められております。 ここには国民政府軍の兵隊が沢山おりました。 保安隊の

兵隊や学生達は後ろに下がっておりました。 集められた日本人の人達は殆ど身体には何もつけておりません。 恐らく国民政府軍か保安隊の兵隊、又は学生達によって掠奪されてしまったものだと思われます。 何も身につけていない人達はこうした掠奪の被害者ということでありましょう。 そのうち国民政府軍の兵隊が何か大きな声で喚いておりました。 すると国民政府軍の兵隊も学生もドーッと後ろの方へ下がってまいりました。 するとそこには二挺の機関銃が備えつけられております。

私には初めて国民政府軍の意図するところがわかったのです。
五十数名の日本の人達もこの機関銃を見たときすべての事情がわかったのでしょう。 みんなの人の顔が恐怖に引きつっていました。 そして誰も何も言えないうちに機関銃の前に国民政府軍の兵隊が座ったのです。 引き金に手をかけたらそれが最期です。 何とも言うことの出来ない戦慄がこの広場を包んだのです。

そのときです。 日本人の中から誰かが「大日本帝国万歳」と叫んだのです。 するとこれに同調するように殆どの日本人が「大日本帝国万歳」を叫びました。 その叫び声が終わらぬうちに機関銃が火を噴いたのです。 バタバタと日本の人が倒れて行きます。
機関銃の弾丸が当たると一瞬顔をしかめるような表情をしますが、しばらくは立っているのです。 そしてしばくしてバッタリと倒れるのです。

(中略)

全部の日本人が死んでしまったということを確かめると、国民政府軍の兵隊も、保安隊の兵隊も、そして学生達も引き上げて行きました。
するとどうでしょう。 見物しておった支那人達がバラバラと屍体のところに走り寄って行くのです。 何をするのだろうと思って見ていると、屍体を一人一人確かめながらまだ身に付いているものの中からいろいろのものを掠奪を始めたのです。

これは一体どういうことでしょう。 私には全然わかりません。

只怖いというより、こんなところには一分も一秒もいたくないと思ったので、Tさんの手を引くようにしてその場を離れました。 もう私の頭の中は何もわからないようになってしまっておったのです。 私はもう町の中には入りたくないと思って、Tさんの手を引いて町の東側から北側へ抜けようと思って歩き始めたのです。

(中略)

昼過ぎでした。 日本の飛行機が一機飛んで来ました。
日本軍が来たと誰かが叫びました。 ドタドタと軍靴の音が聞こえて来ました。 それは日本軍が来たというもので、国民政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、そしてあの学生達が逃げ出したのです。

悪魔も鬼も悪獣も及ばぬような残虐無惨なことをした兵隊や学生達も、日本軍が来たという誰かの知らせでまるで脱兎のように逃げ出して行くのです。 その逃げ出して行く兵隊達の足音を聞きながら、私はザマアミヤガレという気持ちではなく、何故もっと早く日本軍が来てくれなかったのかと、かえって腹が立って来ました。

実際に日本軍が来たのは翌日でした。 でも日本軍が来たというだけで逃げ出す支那兵。 とても戦争したら太刀打ち出来ない支那兵であるのに、どうしてこんなに野盗のように日本軍の目を掠めるように、このような残虐なことをしたのでしょうか。

このとき支那人に殺された日本人は三百数十名、四百名近くであったとのことです。 私は今回の事件を通して支那人がいよいよ嫌いになりました。

私は支那人の嫁になっているけど支那人が嫌いになりました。 こんなことからとうとうTさんとも別れることとなり、昭和十五年に日本に帰って来ました。

でも私の脳裏にはあの昭和十二年七月二十九日のことは忘れられません。 今でも昨日のことのように一つ一つの情景が手に取るように思い出されます。 そして往生要集に説いてある地獄は本当にあるのだなあとしみじみ思うのです。

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