そもそも日本には虐殺と言う概念がほとんどありません。城塞都市がないのも、虐殺がないので民衆を守る必要がなかったことを現しています。中韓のプロパガンダに負けるな!
全部で報告の合った公式に残っている殺人事件は『南京安全地帯の記録』において、26件です。強姦数は175件、略奪などを含めて517件となっています(12月13日から翌年2月7日まで)。
この記録は公式記録で、これが南京における日本軍の悪行とされているものの全てです。
しかもこの記録は、支那人に働きかけて、日本兵の不法行為の事例や噂を報告させ、これを日本軍に抗議の文書として提出したものである。 日本軍を出来るだけ悪く見せようとして、この数字なのである。 安全委員会の外国人(宣教師)たちは、支那人を日本軍から守った実績を残し、布教を有利にしようとしていた意図があったことを前提にみる必要があります。
報告件数の内、約半数の252件は報告者不明の報告で、安全委員会によって認証されていません。
そして、実際に目撃した事件はその内、30件です。
殺人事件に関しては1件であり、それも合法な処刑であったことが分かっています(便衣兵取り締まり最中に支那人が走って逃げたので、射殺した)。
その他は、伝聞であったり、同じ事件を複数の人が報告したりで被っているものや、支那国民党の敗残兵が夜間、強姦などを行い、日本軍のせいにしていたことなども分かっています(委員会側の人間であり、複数で何日も行っていたので犯罪件数のほとんどは彼らによるものである)。
また、被害者の名前が分かっているのは81件、場所の特定があったものは123件です。
証拠の必要な殺人は26件、放火は4件、傷害は39件に対して、証拠のいらない強姦は175件、略奪は131件という怪しい数字になっているのも特徴です。
<上海から南京まで追撃される中国軍に従軍していたティルマン・ダーディン通信員> 『(上海から南京へ向かう途中に日本軍が捕虜や民間人を殺害していたことは)ありませんでした。』『私は当時、虐殺に類することは何も目撃しなかったし、聞いたこともありません』『日本軍は上海周辺など他の戦闘ではその種の虐殺などまるでしていなかった』『上海付近では日本軍の戦いを何度もみたけれども、民間人をやたらに殺すということはなかった。』 (1989年10月号の『文藝春秋』)
<南京事件の日々―ミニー・ヴォートリンの日記>
『12月6日 AP特派員のマクダニエルがきょう話してくれたところでは、きのう句容へ行ってみたが、人が住んでいる村はただの一つもなかったそうだ。中国軍は村びとを一人残らず連れ出し、そのあと村を焼き払っているのだ。まったくの「焦土作戦」だ。農民たちは城内に連れてこられるか、そうでなければ浦口経由で北方に追いやられている。』
<第九号 日本大使館への手紙 1937年12月17日 ジョン・ラーベ>
『貴国部隊が本市に入城した13日、私どもは市民のほぼ全員を安全地帯という一地区に集合させていたが、そこでは流れ弾の砲弾による被害は殆どなかった』
<世界日報ロイター社スミス記者 1938年1月14日>
「(12月)12日午後1時、南京城の大部分が日本軍に占領された。しかし北部はまだ中国軍の守るところだった。日本軍が城北に達したのは15日の朝であった。中国軍は完全に首都を放棄した」
<同じくロイターのスミス記者>
「12月13日の朝、通りにはまだ日本軍の姿はありませんでした。町の南部は依然として中国軍の支配下にあったのです。中華門のあたりでは、夜、すさまじい戦闘がくりひろげられました。戦死した中国人は千人以上にのぼります。12月13日の夜になると、中国兵や民間人は略奪を始めました。まず襲われたのは食料品店です。一般の民家からも兵士が食料を持って出てくる光景が見られました」
「12月14日の朝になっても、日本兵は市民に危害を加えませんでした。しかし昼ごろになると、6人から10人ぐらいで徒党を組んだ日本兵の姿があちこちで見られるようになりました連隊徽章をはずしていて、家から家へと略奪を繰り返しました」
軍紀は厳しかったので、徒党を組んでの略奪は考えにくく(一人で隠れてはあったかも知れない)、支那兵が隠れていないか家を捜索していた可能性が高い。あるいは、徴発を行っていたのも考えられます。家のものが留守の場合は、受領証、借用証などをおいていきます。連隊徽章をはずしていたのは防諜対策で、部隊の居場所が敵のスパイに知られると困るからです。出征兵士はすべてそうします。
「12月15日、外国の記者団が南京から上海に向かう日本の軍艦に乗せてもらうことになりました(中略)広場で日本軍が中国人を縛り上げ、立たせている光景でした。順次、引き立てられ、銃殺されました」
正規の手続きを踏んで投降した兵士は殺していません。便衣兵として抵抗していた兵士の合法的処刑です。これはオアフ号に乗船したニューヨーク・タイムズのF・ティルマン・ダーディン氏とシカゴ・デイリー・ニューズのA・T・スティール記者も同じように目撃しています。国際的な目を気にして、軍紀を厳しくしていた日本軍がこれらを記者に見せているのは、見られて困るようなものではなかったということです。