そもそも日本には虐殺と言う概念がほとんどありません。城塞都市がないのも、虐殺がないので民衆を守る必要がなかったことを現しています。中韓のプロパガンダに負けるな!
南京当時の記録も、日本軍入城から翌年にかけて南京城内外を撮影した記録フィルム「南京」(1938年公開)が発見されていますが、当時の南京市の人口も、国際安全区委員会の一次資料が明確に残っています。
南京市の人口は1937年3月末の時点で101万9667人でした(首都警察庁調べ)。
これが、11月には50万人になっています(ルイス・S・C・スマイス『南京地区における戦争被害』、最終的には20万人になるだろうと書かれている)。
これが、12月には以下の様に10万人から20万と言われるまでに減っています。
その時の様子が色々な資料に残っています。
日本軍が南京に近づいていた11月に、支那国民党は首都を南京から重慶へ移動します。
南京市民も難を逃れる為に、ことごとく脱出を図っています。
南京城内には、南京安全区国際委員会が管理する安全区と呼ばれる居住区がありました。
南京攻略戦でも、日本軍からその地域への攻撃はなく、感謝の言葉を頂いているのですが、南京周辺の住民は日本軍が近づくにつれ、南京から逃げ去るか、安全区に逃げ込むかで、この安全区以外には住民はほぼ居ない状態でした。
12月12日と14日に城内東北部の残敵を掃討した佐々木大三〇歩兵旅団長も、「住民はひとりも顔を見せない。痩せ犬だけが無表情に歩いたり、寝そべったりしていた。」と書いています。つまり、安全区以外誰もいなかったのです。
日本軍が南京を攻略する前の12月1日に、南京市長が全市民へ安全区(難民区)内へ避難するように命じています。(蒋介石や馬超俊・南京市長もこの後重慶へ非難しています。)
安全区というのは、仏人宣教師ジャキーノ神父が、日本軍の承認する「難民地区」を上海南市に設立して良民の保護に当たった先例にならい設けたもので、この管理は南京市長の申し入れを受けて南京安全区国際委員会の外国人15名による自治組織でメンバーは、米人7名、英人4名、ドイツ人3名、デンマーク人1名で組織されていました。
この国際委員会は、日本軍が入城した12月13日から翌年の2月9日までの間に、日本大使館および米・英・独大使館宛に、61通の文書を手交または発送しており、主として日本軍の非行や治安・食糧その他日本軍に対する要求を訴えたもので、実に巨細にわたって毎日のごとく記録していました。
この全文の中に、3回にわたって、「安全区内の難民の総人口は20万人である。」と記述されています。
ちなみに、この20万人は11月の人口50万人の時点でこのままいけば20万人にはなるだろうという予想に先立つものである可能性があり、実際にはドイツ特派員で陥落直前南京を脱出したリリー・アベック女史は、「南京脱出記」では15万人と書いており、当時の米紙にも15万人、捕虜になった国民党の張群思少佐は10万人と述べています。また、南京を占領した松井大将は占領時の安全区の人口は12万人と書いている。
どんなに多く見ても20万人(もっと少なかった)だと考えて間違いありません。
南京大虐殺を肯定する人達は、なんとか人口を増やそうと頑張っていますが、なんの資料もなく憶測で増やしています。
日本人でわざわざ嘘をついてまで、人口を増やそうとする人達は何が目的なのか見当もつきません。
東京裁判では、ロヴィン弁護士が南京の市民は20万人だったというと、ウエッブ裁判長は「今はそれを持ち出す時ではありません」とこの発言を封じています。
しかし、これが翌年の1月に難民に食糧供与をするため、人口の掌握をしたときには25万に増えていました。
これは食料供与の為に安全区国際委員会が調べた人数であり、食糧配給という観点からかなり正確な数字であると考えられています。
増えた5万人は日本の治安が良かったので、逃げた南京市民が戻ってきた分です。
虐殺が有った血生臭い所に戻ってくる人はいません。
また日本軍も難民区に潜入している便衣兵を摘出するため「良民証(日の丸柄)」を給付しました。良民証は10才未満の子供と60才以上の老人を除外して給付された物であり、この給付数が16万に達しています。そこから考えても相当正確な数字だったと考えられます。
南京市郊外の人については、支那国民党軍は焦土作戦と呼ばれる作戦を用いており、城壁に直接に接する市街地と南京の東南京郊外ぞいの町村は軍事作戦として支那国民党軍に焼き払われていました。
なので、 安全区以外には全くと言っていいほど人がいない状態でした(国際委員会もそう判断している)。
ニューヨーク・タイムズのダーディン記者が、当時の様子を「支那軍による焼き払いの狂宴」と題して次のようにレポートしています。
「1937年12月7日、日本軍が句容を越えて進撃し始めたことが支那軍による焼き払いの狂宴の合図となった。南京に向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。
村ぐるみ焼き払われたのである。農業研究書、警察学校その他多数の施設が灰塵に帰した。火の手は南門周辺地区と下関(シャーカン)にも向けられた。支那軍による焼き払いの損害は優に3000万ドルにも及ぶ。これは日本軍の何ヶ月にもわたって行われた空襲による損害よりも大きい。」
とあります。
また、歩兵第三八連隊の戦闘詳報によると、「興衛および十字街付近は、小集落の点在をみるも、住民は居住しあらず。敵はこれらの家屋をほとんど焼却し退却せり。」と書いてあります。
そんな灰塵地域の上、日本軍が攻めてくるのに人なんて居る訳がありません。
居たとしても極々少数であったのは間違いがありません。
そして、その人達は日本軍が非人道的なことをしないと知っていた人達でしょう。
その南京は当時の支那の首都であるが、京都などに比べると比較にならないほど小さな町である。
東西5キロメートル、南北11キロメートルほどであり、その中に山や畑、飛行場まである。
その中の安全区は南京の中央に3.8平方キロメートルを区切って作られている。
その中央では、虐殺がなかったことは確実に分かっています。
あるとすれば、それ以外の地域であるが、外国人記者も含めて150人の記者とその他大勢の評論家も含めて当時南京にいたが、大量虐殺をその目で見たものは一人もいません。
南京大虐殺を創作し世界に広めたティンバーリも一件も見ていないのである。
その上、南京攻略を行った松井大将もこの事件を戦後アメリカが言うので初めて知ったと仰っています。
では、攻めた日本軍はどうだったのでしょう。
南京攻略の戦闘に参加した日本軍は約12万人と言われています。
そして南京入城は12月13日です。
12月15日には、第十軍の第百十四師団が杭州へ転進しています。
そして第十軍の第六師団も、16日から転進を始め、蕪湖に向かっています。
さらに、上海派兵軍も第十六師団の第十九旅団は、12月20日から北支に向かっています。
第九師団は12月24日には南京を去っています。
津の第三十旅団が南京の守備をしていましたが、落ち着いたので1月20日には、天谷支隊と交代しています。
つまり、1月20日には当初の南京攻略軍はすべていなくなっています。
安全区の管理は12月13日から24日まで、第7連隊第一大隊の790名と、第二大隊の802名、合計1592名が行っています。
その後の12月24日から31日までは第三八連隊の約千名です。
1月1日以降は日本軍による警備そのものが行われていません。
(国際委員会から安全は確保できたので警備は必要ないと言われ、支那人の警察官による警備に交代した。)
南京大虐殺があったとするならば、1,000名程度の日本軍が、150名以上の記者達に見つからずに、約20日の間に20万人しかいない支那人を30万人も殺さなくてはなりません。
(安全区に逃げ込んだ敗残兵は約6,500人見つかっているが、武器を取り上げて釈放している。)
ちなみに蒋介石は戦後、南京攻城戦で活躍した日本陸軍の第十六師団長である中島今朝吾師団長を探し、これを殺害しようとしています。
ところが中島師団長が、その時点ですでに他界していたので、彼は報復のため、関係ない後任の谷寿夫師団長を、逮捕し、処刑しました。
その処刑は見せしめの為南京で行われたのですが、大虐殺があったとされる南京城内ではなく、攻城戦があった南京城南端の雨花門の外側です。
本当に南京大虐殺があったのであれば、南京城内で処刑していたはずですが、処刑したのは攻城戦があった場所です。
ようするに南京大虐殺なんてなかったのです。
少しは有ったかもしれないではなく、虐殺どころか日本軍による統治によって安全が確保され感謝され、人が戻ってきたというのが事実です。(安全委員長のジョン・ラーベから感謝状を貰っている)
翌年の元旦に南京城内に自治委員会を発足させ、発表会を開いていますが、南京市民が3万人も駆けつけ日の丸と五色旗を振ってお祝いをしています。
南京市民と日本軍とのふれあい
外国人が支那の宣伝に騙されて信じるのは仕方がないが、日本人でこれを信じている人がいるのは残念でなりません。