そもそも日本には虐殺と言う概念がほとんどありません。城塞都市がないのも、虐殺がないので民衆を守る必要がなかったことを現しています。中韓のプロパガンダに負けるな!
日本軍は日清戦争と義和団事件による北京出兵で、「外部に被害を与えない歴史上初の軍隊」として世界各国の称賛を受けています。
それが50年を得て、もっと秩序だった軍隊になったはずなのに、昔でさえしなかった野蛮な行為をしでかしたと言われています。
蒋介石は当時日本軍の誤爆とかは細かく国連に報告していたのに「南京大虐殺」を言及したことは一度もありません。300回近い会見をしているにも関わらず、そこでも虐殺に触れたことはありません。
南京大虐殺が有ったという資料は、一等・二等・三等史料がひとつもなく、「四等資料(資料作成者が明らかでない)」と「五等資料(いかなる基準で作成されたかわからない)」ものばかりで、記事もありませんでした。
しかし、南京攻略戦前後には150人から300人と言われる国内外の記者と評論家などが多数南京城内にいたので、いくつか記事がのこっています。
それによると日本軍は南京占領後、自治委員会を作って占領を止め、戦況が落ち着くにつれて食糧の配給も始めていった。また住民登録も行って秩序回復に努めています。
住民登録と同時に虐殺を行ったのでしょうか・・・。
ちなみにマギーフィルムを作ったマギー自身は殺人を1件しか見ていません。その一件も日本兵が、民間人に化けた中国兵の掃討作戦をしているとき、不審な中国人をみて身元を尋ねると急に逃げ出したので、撃ったというもので、当時は合法でした。
その他は強姦が1件に、盗みが1件のみです。
強姦を見たというのも日本兵が中国人妻がいる家に入っていったというもので、強姦を見た訳ではありません。何かを聞きに行っただけの可能性もあります。
盗みはアイスボックスを持って家を出て行ったというものですが、借りただけかもしれません。
日本軍の蛮行を逐一非難していましたが、その総数は公式記録で517件(殺人は26件)です。
その多くは支那兵が行ったことを日本兵のせいにしたことであることや、伝聞、報告の被りなどを混ぜてのものなので、実数はそれよりも遥かに少なかったことが推測されます。。
それらのことも載っている当時の記事を集めてみました(日本と支那の記事と当時もっとも反日意識が強かったアメリカとイギリスの記事)。
<朝日新聞 1937年12月17日>
「”平和甦る南京”という題目で早くも避難民が続々と帰り、畑では野良仕事が始まっているようすを載せています。」
<朝日新聞 1937年12月22日>
「”昨日の敵に温情”と言う題目で、支那軍負傷兵を治療し、投降兵に給食などをしている写真などを載せています。
<朝日新聞 1937年12月25日>
「”南京は微笑む=城内点描”として、子供と遊ぶ兵隊さんの姿、賛美歌を合唱する50人ほどの女性を載せています。」
<朝日新聞 1937年12月30日>
「”手を握りあって越年”と言う題目で、支那人の靴屋さんが日本兵の靴の修理、ヒゲの隊長が婦人にミルクを配給するなど、「日に深む日支親善風景」が写されています。」
<ニューヨークタイムス 1938年1月4日>
「この(支那国民党の)将校たちは、支那軍が南京から退却する際に軍服を脱ぎ捨て、それから女子大の建物に住んでいて発見された。彼らは大学の建物の中に、ライフル六丁とピストル五丁、砲台からはずした機関銃一丁に、弾薬をも隠していたが、それを日本軍の捜索隊に発見されて、自分たちのものであると自白した。
この元将校たちは、南京で掠奪したことと、ある晩などは避難民キャンプから少女たちを暗闇に引きずり込んで、その翌日には犯人は日本兵だと言いふらしていたことを、アメリカ人たちや他の外国人たちのいる前で自白した」
安全区のアメリカ人教授などは、南京の非道な行いのすべてについて日本軍を非難してきましたが、しかし、それらの非道の多くは教授などが匿っていた支那兵たちの仕業だったのです。
安全区の委員会の日記に登場する日本人による金陵女子大学の強姦事件はこの日よりも前の日付です。
「
<ニューヨーク特電 1937年12月7日>
「首都陥落を前にして、支那軍は7日も南京市外10マイルの地域内にある全村落に火を放ち、日本軍の進撃に便宜を与えるような物は全て焼き払わんとしているため、南京市は濛々たる黒煙に包まれてしまった。(中略)焼け落ちた家々からは、今まで踏み止まっていた村民の群が、僅かばかり家財道具を背負ったり小脇に抱えたりして、よろめきながら城内指して逃げ込んでくる」
<シカゴ・デイリーニュース 1938年2月14日>
「日本軍は中国兵を処刑した。それ故中国兵は武器や軍服をすべて放棄し、街は武器と軍服でいっぱいだった。日本人にとって処刑は戦争かも知れないが、私には殺人に見えた」
<チャイナ・プレス 1938年1月25日>
「その報告書の主張するところによれば、彼らのなかには南京平和防衛軍司令官王信労がいた。彼は陳弥と名乗って、国際避難民地帯の第四部門のグループを指揮していた。(中略)また、前第八十八師の副師長・馬中将や、南京警察の高官・密信喜もいると言われている。馬中将は、安全区内で反日攪乱行為の煽動を続けていたと言われる。また、安全区には黄安大尉のほか十七人が、機関銃一丁、ライフル十七丁を持ってかくまわれ、王信労と三人の元部下は掠奪、煽動、強姦にたずさわったという。」
結構な数の支那の将校が安全区に匿われており、略奪などを行い、日本軍のせいにしていたのが良く分かります。それらすべてを合わせて殺人事件は26件(略奪などを合わせると517件)しか報告されていません(安全委員が見たのは1件だけで、合法的だった。その他は中国人から伝聞のみです)。
<南京地方裁判所 1945年11月>
「日本側の欺瞞妨害が激しく(していない)、民心が進んで自発的に殺人の罪状を申告する者甚だ少ないのみだけでなく、委員を派遣して訪問した際にも、冬の蝉のように口をつぐんで語らない者、あるいは事実を否認する者、あるいは自己の対面をはばかり告知しない者、他所に転居して不在の者、生死不明にして探索の方法なき者などあり」
戦後の戦犯の裁判の際にも、日本軍の暴行を訴える市民はほどんどいなかったのである。それどころか市民から事件を否定されている。
<ロンドン・タイムズ 1937年12月18日>
「12日、中国兵は逃亡し始めたが、逃げる船がないと解ると混乱が始まり、安全区になだれ込み、交通部は放火された。13日、日本軍の掃討がはじまった。数千人の中国兵が安全区に逃げ込んだ。14日、日本軍は大通りを軒並み略奪し、外国人のものも略奪した。また中国兵とみなされる者を処刑した。通りには死体が散在したが女性の死体はなかった。掃討は15日も続いたが街は落ち着いてきた」
ロンドン・タイムズの2か月の記事の中でで南京事件はこれだけである。「サンデー・エキスプレス」には記述がなかったみたいです。