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南京大虐殺はなかった!?

南京大虐殺はなかった。

そもそも日本には虐殺と言う概念がほとんどありません。城塞都市がないのも、虐殺がないので民衆を守る必要がなかったことを現しています。中韓のプロパガンダに負けるな!

はじめにはじめに

南京大虐殺について、色々議論が交わされています。
虐殺数が30万人以上のものから、10数万人、4万人が上限、数千から2万人と色んな説があるが虐殺否定説はほとんどいないのが現状である。

しかし、虐殺肯定派の話を聞いてみても、捕虜の処刑であったりするだけで、市民の虐殺は誰も見ていないし、死体も出ていない、「数万人の兵士がいたのだから、極限状態だと虐殺をする兵士もいたに違いない」という憶測が根本にある。

そもそも日本軍が大戦中「残虐だった」と宣伝しているのは、中韓だけである。

東南アジアでも、訴えているのは中華系のみである。
中韓が関係していない、パラオやサイパンのような離島、インパールのような戦いでは、虐殺どころか略奪も一件も報告されていない。

レイプも、通常はあったと言われる地域では、混血児の問題や大量の堕胎手術の記録が残っているのが普通であるが、日本の占領地域で混血児が問題になっているのは聞いたことがない。

インパール作戦においては、7万人が白骨街道で餓死したと言われているが、略奪が一件も報告されていない。
「一件も」である

退却している日本軍の兵隊は銃を持っていたし、白骨街道の周りには民家が沢山存在しているにも関わらず、略奪の報告はなく餓死を選んでいる。しかも、前述したが7万人もの大軍であったのにも関わらずである。

ペリリュー島でも日本兵は玉砕したのに、現地民は一緒に戦うことを直訴したがそれを断り、現地人を逃がし被害者はゼロである。

そんな誇り高き日本兵も、何故か中韓が関わると、酷く残虐な兵隊に変わる。

学者の見解のほとんどは、歴史学者ではなく中国などに受け入れてもらえる出口を探す政治学者である。
そんなものは歴史でも何でもない。

また、出てくる証拠の写真はねつ造が判明したものばかりである。
ほとんどが酷いことに、他の地域で中国人が日本人を虐殺した写真(通州事件)を逆に使っている。
一つ一つの写真のねつ造も判明しているが、基本的に支那側から出てくるすべての写真がねつ造であることは間違いのない事実である。なぜなら、
虐殺の写真を敵対国が撮るのは不可能だからである
そんな写真があるとすれば、日本から出て来なくてはいけないが、そんなものは未だに存在していない。

虐殺があったかどうかの議論とは別に虐殺の現場写真はすべて捏造写真なのは間違いのないことである

しかし、本当に日本兵は、中韓相手にだけ酷く残虐な人間に変身したのか、それをこのホームページで解き明かして行きたい。
(南京事件の最初期の公式記録である「南京安全地帯の記録」では、殺人26件、強姦175件、略奪131件、傷害39件が記録されている。これらは、報告が被っていることや支那国民党の残党が行った分も入っていることが分かっているので、南京で日本軍による被害が多くてもこの数字である。)




南京占領時の様子南京占領時の様子


1937年12月17日に日本軍が南京市民に歓声を持って迎えられる様子。
(毎日版支那事変画報 1938.1.11発行)


南京市民に食糧等を配る日本兵たち
(イギリス系新聞「ノース・チャイナ・デイリーニュース」1937.12.24付)

南京市民が日本兵を歓喜を持って迎えているのは、支那国民党の兵士があまりにも市民を殺し過ぎていた所、日本軍が統治して治安が良くなって感謝しているからです。

支那国民党がどれほど酷かったのか、ニューヨーク・タイムズのダーディン記者が、当時の様子を「支那軍による焼き払いの狂宴」と題して次のようにレポートしています。

「1937年12月7日、日本軍が句容を越えて進撃し始めたことが
支那軍(中国軍)による焼き払いの狂宴の合図となった。
南京に向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。
村ぐるみ焼き払われたのである。
農業研究書、警察学校その他多数の施設が灰塵に帰した。
火の手は南門周辺地区と下関(シャーカン)にも向けられた。
支那軍による焼き払いの損害は優に3000万ドルにも及ぶ。
これは日本軍の何ヶ月にもわたって行われた空襲による損害よりも大きい。」

ちなみに
日本軍が統治してから、南京の人口が20万人から25万人に増えています
これは、日本の統治が良かった為に周辺から市民が南京に集まって来たからです。虐殺があったのであれば、人口は減ってなくてはならないのに増えているのです。

南京での戦いは支那国民党軍が、南京市民に銃を突き付けて、「お前達も銃を持って日本軍と戦え」と強制して行われています。
しかし、いざ戦いとなると支那国民党の正規軍がまっさきに逃げだし(蒋介石や馬超俊市長が一番初めに飛行機で逃げた)、あっさりと落城しています。

年が明け、正月になると、日本軍は餅やお雑煮を大量に南京市民に振る舞ったりしています。

そして、日本兵だけでなく、敵兵の負傷者まで治療していました。



中国の負傷兵を看護する日本の衛生兵
(朝日版支那事変画報 1937.12.20撮影)

そもそも日本軍の主力銃は三八指揮歩兵銃です。この銃はいわゆる元込め式の単発銃で、弾を一発一発込めて、装填してから撃つ銃です。
単発銃で、何万人も虐殺をどうやってするのか教えて欲しいものです。

ちなみに物資に乏しかった日本軍は戦いの最中でも、「使用弾薬何発。残り弾薬数何発」と何度も伝令を出して司令部に報告を入れなければなりませんでした。

機関銃もありましたが、日本の機関銃はアメリカ製の機関銃とは違い性能が悪い。
1分間に撃てるのはせいぜい40発で、5分も撃てば加熱して、砲身を冷やさなければ壊れるという代物でした。

日本刀で殺すのはもっと不可能です。支那国民党の便服と言うのは、生地がとても厚い。素人では銃剣で突き刺すのも無理というぐらいの服でした。

南京攻略で日本軍を率いた松井石根司令官は、攻城戦に際して、南京市内の安全区に対する砲爆撃を厳禁し、占領翌日の12月14日には、安全区の出入り口全てに歩哨を立てて許可のない者の入区を禁止して庇護してもいます。

金陵大学病院医師マッカラム氏は、東京裁判に提出した日記の中で次のように述べています。
「(安全区に入ってきた日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。
若干のたいへん愉快な日本兵がいました。
私は時々日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました」

日本人を憎悪していたマギー牧師でさえ「安全区は難民の“天国”だったかも知れない」とさえ述べています。

ちなみに、南京市民は一人残らずすべて安全区にいました。
この地区で虐殺がなければ、虐殺なんてないのです。

安全区国際委員会の書記長スマイス博士(米)も、その調査報告書の中で「住民のほとんどはここに集まっていた。難民区内は一件の火災もなく平穏であった」と述べている。

南京大虐殺は2万人から30万人の婦女子を虐殺したと言われていますが、虐殺されるはずの婦女子が全員が「安全区」にいて日本の警備司令部によって保護されていたのが現実です。

そして、南京城内には国内・海外(反日国も含む)を含めて150人近くの記者と著名な評論家(大宅壮一、野依秀一など)、詩人、作家などがいました。
その人達が南京城内外を取材・視察して、
誰一人として非戦闘員の虐殺は見ていません

松井大将も南京陥落10日後に上海で、外国人記者団と会見しているが、その時も虐殺事件は話題にも上がっていません。

支那国民党の蒋介石も日本軍の誤射などミスを逐一世界に発信していましたが、その後300回にもわたる記者会見において南京の大虐殺など一回も伝えていません。

日本軍は虐殺どころが、日本軍入城前から止まっていた電気や水道などのライフラインの復旧に、技術将校以下80名と、中国人電工70名の班編制で、水道も同様に150名の編成で不眠不休、激烈な戦闘の疲れも忘れて取り組んだといいます。

その後、20万人の市民への食糧の手配・配給など、虐殺をする暇がないくらい働いています。

当時、海外(反日国)を含め新聞・記者会見などでは、日本の統治を称賛してた南京統治が、戦後急に虐殺をしていた地域に変わりました。
それまで何も言っていなかったのにです。

海外の人達がそれを信じるのは、分かります。
欧米などでも戦争地域ではレイプ、虐殺は当たり前で、スペインの統治領では人口は1割に減ったり、絶滅も珍しくありません。
アメリカのドイツへのノルマンディー上陸作戦も街中でレイプを見ないで歩くのは不可能とまで言われたぐらいです。
自分たちがしていたのだから、他の人達がしていることを疑問に思わないのです。

しかし、日本は違います。
日本には虐殺の概念そのものがありません。関ヶ原の合戦でも付近の農民がお弁当を持って観戦していたと言われるくらい市民には手を出していません。

阪神大震災や東日本大震災でもその民度の高さが世界で称賛されていました。

そんな国民性を持つ日本人がこのデマだらけの話を信じているのが残念でなりません。

このサイトを見て、その認識が少しでも変わってくれることを祈っています。


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